私が管理栄養士になった理由

私が管理栄養士になった理由

私は小学校低学年からサッカー・空手・水泳をやる、いわゆるスポーツ少年でしたが、学業に関しては、どちらかというと不真面目で、提出物などあまり出さない、いわゆる問題児の一人でした。

しかし、それでも親は勉強する環境を作ってくれたお陰もあり、中学生の時まではそこそこの成績でした。

学年300人中、平均50番くらい、良いときで8番をとった程度です。

定期テストの成績よりも、学力テストの成績の方が良かったことを記憶しています。

中学生の段階から私は単純暗記よりも、理解して覚えることのほうが好きでした。こういう傾向の子は定期テストよりも学力テストのほうが成績がよくなるんですよね。

勉強はまあそれなりにでき、高校入試では地元で1番の進学校を狙えないわけではありませんでしたが、合格を狙うには継続的な勉強が必要だったため、現状維持でも十分に合格できる2番手の高校の進学しました。

入ってからすぐの学力テストでは、学年でトップ層にいたと思います。当時の担任が成績優秀な私に声をかけてきました。

しかしそれからはほとんど勉強せず、授業は寝て、家に帰ってギター弾いたり、パソコンをいじったりして過ごしていました。

ギターはヘヴィメタルという音楽ジャンルに傾倒しており、いわゆるギターヒーロー、リッチーブラックモア、イングヴェイマルムスティーン、ダイムバックダレル、ポールギルバートなどが好きで、頑張ってコピーをしていました。1日6時間以上練習した時もありました。

あの時は20023年くらい。パソコンやブロードバンドの普及が著しかった時代です。友人にパソコンが好きな者がおり、自作パソコンについてや、あの時流行ったファイル共有ソフトや2ちゃんねるの話題で持ちきりでした。すでにwebサイトを運営している者もおり、とても面白い時代だったと思います。また、世間に目を向けてみると、日韓W杯の開催で、ベッカムヘアーが流行った時代です。

またちょうどインターネットカフェが出来始めたころで、高校に行くまでの道中で、そういったお店がありました。うろ覚えですが、確かモーニングプランのようなものがあり、その時間帯は数百円でパソコン使い放題、ジュース飲み放題、アイスクリーム食べ放題だったと思います。

私は登校する時にそこに寄っては、ウェブサーフィンをしながら適当に時間を潰して、散々ジュースやアイスを飲んだあげく、親の出勤時間を見計らって帰宅をするようなこともしていました。

ウェブサーフィンをしていたらたまたま辿り着いた、あのときに読んだ誰かの東海道五十三次の徒歩旅行記がとても面白かった。仕事を辞めて、時間が出来たから東京から西に向かってひたすら歩いていったあの方の「今」はどんな感じなのだろうと、ふと思う時があります。

また、学校へいくふりをして、違う街へ電車で行き、映画を見たり街をフラフラするなどしたこともあります。違う高校の友達と待ち合わせて、遊びに行ったこともあります。街では、よく指導員らしき人に声をかけられましたが、その地域では進学校の学ラン率が高く、私も学ランを着ていたことより、定期試験だから学校が早く終わったと嘘をつくことより、難を逃れていました。

東京では声をかけられることもないんでしょうが、地方では、平日昼間にうろうろしている高校生はやはり目立つのです。

こんな感じで、決して真面目ではなかったものですから、もちろん成績は入学当初と比較すると大幅に下落しました。株価で言えば大暴落です。勉強もはじめが肝心で、どんどん授業が進むからまったくわからなくなりました。

でも勉強もしないので、あっというまに学年でも、数少ない常連赤点ゲッターとなったのです。

もともと勉強に関しても不真面目ですので、いくら成績が悪くてもへっちゃらで、なんとも思っていませんでした。

しかし、高校2年生の夏が過ぎた頃、そろそろ進学の話が出てきます。

焦り始めて勉強をしました。クラスが理系で、パソコンに興味があったので、情報工学に関する学部学科を中心に狙うつもりでした。

その中でも父親のすすめもあり、医療工学の学部も一つだけ受けました。

当時のセンター試験利用で、東京のとある大学の、情報工学系の合格を勝ち取りましたが、一般試験含め、すべて受験し終えた最終結論としては、父親のすすめだった、医療工学専攻の、某K大学へ進学することになったのです。

ここは医療系の総合大学で、キャンパスと大学病院が一つになったような大学でした。

大学に進学しからは、すぐにジャズ部に入部し、ここに入り浸るようになります。そして授業は初めから出ない上、全く勉強に興味がわかず、日々部活、バンドやバイト、遊びに明け暮れていました。

この時ほど、宙ぶらりんで、時間を無駄にした時はないというくらい、毎日好き勝手生きていました。

この時の心情としては、自分が今後何をしていったらよいのかわからないというより、良い表現をすれば、自分って一体なんなんだろうかという類の、所謂若者の青春哲学とも呼べるような、青臭いながらも、深い思索にふけっていました。

また、これまでの自分の価値観を全て解体し、善も悪も、倫理的感覚も麻痺していました。高校生の時代以前に形成づけられた、一般常識がなくなっていました。

正直、とてもじゃないが人には言えないような、悪い経験も多くしました。周りにもそういう仲間が増えていき、真面目な人間は離れていきました。

こんな様子ですから、大学にも行かなくなり、親の了承も得ないまま大学を中退しました。その後たまたま同じく中退した経緯のある先輩に誘われ、某インターネット広告企業で働くことになりました。

同時に、夜も小料理屋でアルバイトを始めました。

こういった状況では、不思議と似たような人や不思議な人達が周りに集まってくるものです。某新興宗教に勧誘されて、半ば好奇心で入会したり、俳優志望の某とつるんで、短編映画を作ったり。。(2006年くらいの話なのでYou Tubeはありましたが、YouTuberなどという単語はなかった時代です)

真剣に音楽をやったり。

そんなことをしているうちに、世の中のとても汚い部分や、どうしようもない格差や差別のあることを色々垣間見てしまい、当時若かった自分としてはあまりにも衝撃的で、ともすれば、自分もこういった世界に知らず知らずの内に落ちていってしまうのではないか、あるいはすでにそういったところにいるのではと、恐ろしくなったものでした。

世の中は自分が思っている以上に、あるいは想像も及ばぬくらいに、あまりにも混沌としている、素晴らしい人は、沢山いるが、それと同じくらい、いやそれ以上に奈落の底に這いつくばり生きている人も、また

このどうしようもない日々を過ごす中で、せめて、若いうちはしっかり学を修めるべきだと思いはじめ、だったら、今後の就職先などそういったものは一切関係なく、自分が一番興味のある領域の勉強をしようと、栄養学の道に進もうと、決心しました。

栄養学を学ぶにあたっては、学費が安い国立を志望しましたが、日本で栄養学が学べる共学の国立は一つしか有りませんでした。したがって、公立にまで視野を広げましたが、結局某地方国大に行くことに決まりました。

大学生活は、学校とアルバイトに明け暮れました。アルバイトは、塾の講師と家庭教師をやりましたが、幸い生徒をたくさん紹介してもらえ、それなりの収入はなりました。距離のあるところまで通うこともあったため、ボロボロの中古車を購入し、さんざん乗り回していたこともいい思い出になっています。

大学生活においては、地方国立大学というのは、地元のそれなりに優秀な子が入ってきます。特に女の子に多いケースですが、都会に出したくないという親の考えで、本来であれば、さらに偏差値が上の学校(都会の国公立など)十分に狙えそうな学力がある子も、地方国立には、ちらほらクラスにいます。

私は特に優秀ではありませんでしたので、成績もまあ。ほどほどという感じで、卒業しました。

栄養の業界は、特に病院は私の大学では比較的、成績が優秀ではない学生の就職先でした。

なぜなら、管理栄養士として就職しても、地位が低く、待遇が悪いということは皆知っていたからです。

半数程度の学生は大学院に進学し、優秀な学生は、栄養学に関係ない民間企業に内定をもらっていました。

私は、もともと栄養学がやりたく、それを最大限に使った仕事をしたかったわけですから

、就職は地元にある某大学病院に入職しました。しかし、ここが最高にブラックな職場でした。

いじめがあるのです。

しかも、そのいじめの洗礼は新人であれば誰もが経験します。

特に、ひどいケース、軽いケースがありますが、私の一つ上の先輩は、そのせいで自損事故を起こしています。

私も例外なくいじめの対象にされましたが、生まれ持った鈍感力もあり、適当にやり過ごしました。

また大規模病院で直営であったことから非常にハードで、朝は430分に出勤し、夜は23時に帰るなんてこともありました。

私の目標はとにかく、出勤することでしたから、なんとか日々をこなしていくうちに、仕事も少しずつ覚えてきました。

またここは労働環境は最悪でしたが、給与が良く、特に辞める理由もなく続けていこうと思いましたが、そういうときに、何かしら起こるものです。私に結婚の話が出ました。

大学の時から付き合っていた彼女との結婚の話です。

彼女は東京で就職をしていた関係上、話し合った上、私が東京へ行くことになりました。

私はすぐに転職活動をしました。

結論としては、比較的高待遇の病院にポンポンと決まりました。しかし、職場に辞める手続きも完了した段階で、紆余曲折あり、結局その彼女と別れることになったのです。

一度受理された退職届は撤回することができません。また、もうすでに内定先にも行くという意思を示していたため、新しく人生を切り開くにはちょうど良いと思い、東京に来たわけです。

ここでは、臨床をやる機会が多く、また原著論文や報告をいくつか出すことができました。

働きながら平行して、大学院に行くという道が開かれ、修士課程は免除、博士後期課程に入学することを許されました。

そして今に至るという感じです。

本当にざっくり話すとこんな感じです。かなり箸折っている時代もありますが、今後の予定としては、特に管理栄養士の地位を上げるにはどうしたら良いかということを、具体的な行動で示していきます。自分だけが儲けるのではなく、全体のパイを広げることがとても重要です。

お問い合わせはこちらから→u0622@takuhaifoods.com